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(写真は左右とも ウォールデン池の秋色)
「森の生活」との出会い
ソローの名前を知ったのは北大で学生生活を送っていた20歳の時だった。
私はハーバード大学からの感謝状を持っている。大学があるボストン近郊のマサチューセッツ州ケンブリッジでこれを見せればハーバードに推薦入学でもできるのかと聞いたら、それはない、と言われたので今でも押入れに入ったままだ が、この感謝状がソローを知るきっかけだった。
当時、ハーバード大学のグリークラブが日本に公演旅行にやってきた。札幌で受け入れ先を探しているがどこかないかということだった。こちらも 下宿生活の身で自由になる部屋などなかったが、2階の一室を整理すれば2,3泊程度は使えそうだったので、下宿の奥さんに相談したら、いいわよということで引き受け ることになった。下宿には高校と中学の娘2人がいたが彼らの滞在中2階を明け渡し別な部屋に移った。
すこしわき道に入るが、この項を書いている2008年7月の福田内閣の官房長官は町村信孝氏である。この下宿を世話していただいたのが氏の母堂だった。 当時、下宿を変わる必要に迫られていて道庁の近くの知事公舎を通りかかった。大きな家なのでここなら置いてくれるかと、飛び込んだ。町村金五北海道 知事は不在だったが、夫人が物知らずの学生の応対に出てこられ「お役所のものなので、ここではお世話できないんですよ」と丁寧に断られ、代わりに札幌 市の総務部長に紹介状を書いてくれた。後に市長になった板垣武四氏だった。彼がまた「ここに行きなさい」と言ったところが当時札幌のはずれ北32条の 知り合いだった。ご主人は歌志内の炭鉱の幹部で週末に札幌の自宅に戻る生活をしていた。
板垣市長は札幌雪まつりをつくり、地下鉄を開通させ、札幌オリンピックを開催、政令指定都市になりと時代を20年先取りしたと言われる名市長である。札幌五輪の時に 取材の合間に元下宿のご主人を訪ねたら、炭坑はすでに斜陽で、北炭での知識を生かして板垣市長の下で地下鉄工事の指揮をしていた。下宿の北隣は牧場で2階の庇(ひさし)から 下を通る馬に飛び乗ることができた。私が馬術部員と知って紹介してくれたのではなく、偶然だが、うってつけの環境に狂喜したものだ。
いま、東京・日比谷のプレスセンターにある日本記者クラブで町村信孝氏の会見があると、進んで出席する。クラブメンバーながら山にいることが多いので普段は大抵の会合に欠席しているのだが、 氏の記者会見だけは別だ。町村派を率い、外務大臣、官房長官と次第に貫禄が出てきた。あのとき応対していただい たご母堂のことを思い出しながら聞いている。
当時の話に戻ると、やってきたのはアルトを担当する二人のユダヤ人学生だった。ともに著名なハーバード大学のロースクールで学ぶ弁護士志望。風采はあがらないがまじめな男だった。一人は足が悪くどういうわけか東京 で見かけた日本の学生服が気に入ってわざわざ買い込んで四六時中着用していた。行きかう人が日本の学生服を着た変なガイジンと乗馬ズボン(馬場での練習姿のまま落ち合うことが多かっ た)の日本人学生という妙な取り合わせに皆振り返った。北海道には熱いごはんにバターをたっぷり乗せて食べるということをする人が多い。下宿の娘に教わりながらやってみて大いに気にいったようで、関西出身の私のほうが 二の足を踏むほどだった。北大の構内や付属植物園、馬術部など金のかからないところを主に案内して、たまにジンギスカンやビアホール、途中で教育大学の学生が英会話の勉強に合流するという 毎日だったが、下手な英語でも結構互いに意思疎通はできていた。
そのときハーバードの学生ならみんな知っているというソローとその著書「森の生活」(原題は「WALDEN or LIFE IN THE WOOD」 )のことを聞いた。ソローは「S」でなく「T」だよとメモ用紙に書いてもくれた。彼が 暮らした湖(本では「池」と呼んでいる)はハーバードからそう遠くないところで、二人とも行ったことがあるという。
ハーバード大学と北大は関係が深い。「森の生活」の原題は「WALDEN」というのだが、このウォールデン池はボス トン郊外のコンコードにある。コンコードからさらに西100キロほどのアマースト(Amherst)は「Boys be Ambitious」(少年よ 大志を抱け)の言葉を残したクラーク 博士(William S. Clark 1826-1886)の故郷だ。マサチューセッツ州立アマースト農業大学の学長のまま来日、北大の前身、札幌農学校教頭として "Be gentleman"だけを校則に して、わずか8か月の滞在ながら内村鑑三、新渡戸稲造、宮部金吾などの人材を育て今なお教育の奇跡と言われている。上で町村父子のことに触れたが、二人の父であり祖父である町村金弥は、札幌農学校で宮部金吾や佐藤昌介等と共に学び、日本における"酪農 の父"と言われている。
またクラーク博士と一緒にやってきた2人の教師は札幌近郊で採集したエンレイソウなど多くの植物標本をアメリカに送り、今もハーバード大学に 残されている。気候も札幌ととても似ているという。もっともそうしたことは後から知ったことなのだが。
新聞記者生活に入って20年ほどたったころ、学芸部を通りかかったら新刊本で近日書評に取り上げる予定という箱の中にソローの「森の生活」があった。掲載されたあ とでいいからと貰い受けて読み出した。文中の注釈やギリシャ神話の解説もあり読みやすかったせいもあるが、一気に読めた。自分もいつかこういう生活をしたいと思った。
いろんな社会生活の中でも一番がさつなのが新聞記者だと思うが、政治、経済、社会あらゆる事象を追いかけてはいるが、いずれ歴史の中にうずもれて誰も振り返らない ことばかりだ。なにより「浅く広く」物事を見ることばかりに慣れている。事実、新しいことばかり追いかけて勝手に忙しがっていた。ここらで立ち 止まってじっくり考えることが必要ではないか、人間はきっと自然のなかに身を置くのが本来の姿なのではないか、とも考えた。
ちょうどそのころ、八ヶ岳の中腹にログハウスを建てる計画が進んでいた。家庭の経済のことに疎いのを言い訳に、ローンや手続きのことなど面倒なこと 一切合財を家内に押し付けて、今は忙しいがいずれ落ち着いたら暖炉のそばでこの本や植物や野鳥や自然史の書を広げて過ごし たいものだと勝手に夢を描き、「汗牛充棟」と言いたいが牛は涼しくしていて棟木まで余裕がある書庫のほとんどの書物とともに山小舎の屋根裏部屋に放り込んで、また喧騒の生活に戻った。
それからまた20余年が過ぎた。不思議な因縁を感じつつ、ソローの本を読んでみると、山墅(さんしょ)でのいくばくかの生活を通して、帰納法的にも演繹法的にも、 人間本来の姿はひっそりと森の中に身を沈めて、春には木がゴウゴウと水を吸い上げる音を聞き、冬にはヒ ューヒューという木枯し吹雪に耐えて、いつかまた来る春を待ち続けることが「生きる」ということではないか、やがてそのまま山の精に命を吸い取られるまで。それが幸 せというものではないか、と考えるようになった。
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ソローの生涯
ヘンリー・デイヴィッド・ソロー( Henry David Thoreau)
以下にソローの経歴をまとめたが、誰もが不思議な人だと思うことだろう。だいたい何で生計を立てていたのか。経歴から浮かび上がる職歴を履歴書風に書 き上げるなら、「学校教師、家庭教師、測量士、植木職、農夫、ペンキ屋、大工、左官、日雇い人夫、鉛筆製造人、紙やすり製造人・・・」とでもなるのだが、ハ ーバード大学という最高学府を出たわりにはぱっとしない職歴だ。もっとも、ソローの多彩な職歴から当時のアメリカ社会の様子を読み取ることができる。測量士の仕事で食いっぱぐれがないということは、開拓 時代の名残りで土地争いが絶えなかったのだろう。国中でまだ土地の分捕り合戦を展開していたのだから、境界線を画定するのに測量技師の需要 が高かったのだ。ペンキ屋、大工、左官の仕事にソローが駆り出されていたのは"ゼネコンブーム"だったことがわかる。ペン書きはまだ公式文書 だけで、世間では鉛筆が主要な筆記用具だったこともわかる。
彼は生涯結婚しなかったが、また定職というものを持たなかった。普通なら一生の仕事になるだろう教師も二週間で辞めている。今なら学習 塾とでもいうのだろうが、兄と私塾を開いたこともあるが、兄の病気もあり3年で辞めた。
どれも長続きはせず、すぐ自分の家にこもった。「森の家」を出た後半生は日雇いの測量の仕事で生活費を稼いでいた。今風に言えばフリータ ーとかニートとか引きこもりとかに分類されてもおかしくはない生活だ。
でもただのフーテンではない。最小限の収入を得たら、お金は要らないという考えから転々とし、頼まれれば町の成人学級のようなところで講演 し、残ったほとんどの時間は思索にあてた。この分野こそ彼の真骨頂であり、現在も燦然と輝く肩書「文筆家、詩人、博物学者、自然主義者、 思想家、超絶主義者、奴隷制廃止論者」なのだ。
ソロー年譜
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1817年7月12日 アメリカ・マサチューセッツ州ミドルセックス郡コンコード郊外のヴァージニア通り にある母方の祖母の農場で、四人兄弟の次男として生まれる。姉ヘレンは5歳、兄ジョンは2歳。 1818年(1歳) 父がコンコードの北10マイルにあるチェルムズフォドで食料品店を経営する。 1819年(2歳) 妹ソフィア誕生。 1821年(4歳) 父の食料品店が倒産して、一家はボストンへ移住する。はじめてウォールデン池を見る。 1823年(6歳) ボストンからコンコードに戻り、父は鉛筆製造の仕事を始める。 1828年(11歳)9月 兄と共に、コンコード・アカデミーに入学する。 1833年(16歳) ハーバード大学に入学。学年末に25ドルの奨学金を支給される。 ギリシア文学、ラテン文学、イギリス文学を愛読する。 1835年(18歳) 教職につく決心をし、マサチューセッツ州カントンで教壇に立つ。 1836年(19歳) 哲学者ラルフ・ウォルドー・エマソン(Ralph Waldo Emerson, 1803-1882 ) が『自然論』を発表し、物質主義や合理主義を排して、≪直感≫を重視する超絶主義を提唱する。 病気で休学する。その後、ニューヨークで父と鉛筆の行商をする。 この頃から詩や日記を書く。* 超絶主義(下記参照) ハーバードに復学する。このとき大学に招かれたエマソンの講演「アメリカの学徒」を聴く。 ハーバード大学を卒業し、卒業記念演説を行なう。 9月 コンコードの小学校の教師になるが、生徒に体罰を加える事に反対して、教育方針の非を教育委員会に 申し出たが受け入れられず、二週間で辞職する。 1838年(21歳) コンコード・アカデミーの名称と建物を借用して、全人教育を目的とした私塾を兄と共同で 始める(〜1841年)。 1839年(22歳) エマソンとの親交が深まり、マーガレット・フラー(Margaret Fuller, 1810-1850 作家、 ジャーナリスト)、エイモス・ブロンソン・オルコット(Amos Bronson Alcott,1799-1888 「若草物語」 のオルコットの父)、ジョージ・リプリ(George Ripley ,1802-1880 作家、超絶主義者のユートピア 「ブルック・ファーム」の創立者)などコンコードサークルの人たちと知己になる。 8月31日 兄と共に作った小舟でコンコード川からメリマック川にいたる探索の旅をする(二週間)。 1840年(23歳) 11月 エレン・シュアール嬢に求婚するが断られる。 1841年(24歳) 兄の病気により、コンコード・アカデミーを閉鎖する。 4月26日 エマソン宅に寄寓する(〜1843年5月)。 1842年(25歳)1月 兄が破傷風で死去。 1843年(26歳) 孔子の研究を始める。 1845年(28歳)3月末 コンコードから南方1マイル半(3.8キロ)のウォールデン池畔にあるエマソンの土地に 丸太小屋を建てるため、エイモス・オルコットから斧を借り、池畔の森の木の伐採を始める。 5月の始め頃 丸太小屋の棟上げを行う。 7月4日 アメリカ独立記念日に入居し、自給自足の一人暮らしを始める(〜1847年9月6日)。 1846年(29歳) 5月 アメリカ・メキシコ戦争はじまる(〜1848年)。 メキシコ戦争と奴隷制度に反対して人頭税を支払わなかったために逮捕され、ミドルセックス郡刑務所に 収監されたが、叔母マライアが代りに支払ったため、翌日釈放される。 彼の行動(良心的不服従の理念)は、のちにトルストイやインドの哲人ガンジー、黒人運動の指導者マーティン・ ルーサー・キング牧師、ヴェトナム反戦運動のノーマン・メイラー、コネティカット州クエーカー農園の一団 などに強い影響力を与えた。ガンジーは暗殺されたときソローの著作を持っていた。 1847年(30歳) 9月6日 ウォールデンでの生活を終える(2年2カ月)。 エマソンのイギリス旅行の間、エマソン邸に住む(〜1848年)。 45歳のソフィア・フォードから求婚されるが断る。 1849年(32歳) コッド岬に旅行する。 姉ヘレンが肺結核で死去。 1850年(33歳) 逃亡奴隷取締法が制定される。 アメリカ・インディアンの研究に入る。 1851年(34歳)1月 メドフォードで「ウォールデン」、クリントンで「コッド岬」と題して講演する。 10月 ヘンリー・ウィリアムズという逃亡奴隷を助け、カナダに向わせる。 1852年(35歳) 2月 各地で「ウォールデン」と題して講演する(〜5月)。 1854年(37歳)7月4日 フレイミングハムの奴隷制反対集会で「マサチューセッツ州における奴隷制度」 (Slavery in Massachusetts)と題して講演。 8月9日 ウォールデン池畔での生活記録『ウォールデン―森の生活』(Walden, or Life in the Woods)を 出版し(初版2000部)、好評を博す。 1855年(38歳) この頃から、登山・野営などの無理がたたって不健康になる。 1857年(40歳) 冬 奴隷解放主義者のジョン・ブラウンに会う。 1859年(42歳)2月7日 父が死去、享年71歳。 10月、ジョン・ブラウンが仲間とヴァージニア州の政府武器庫を襲撃、逮捕される。 *「ジョン・ブラウンの乱」(下記参照) コンコード成人教養講座で「ジョン・ブラウンを弁護して」を講演。 12月2日 ジョン・ブラウンが処刑される。追悼集会で追悼文「ジョン・ブラウンの死後」を読み、哀悼詩を朗唱する。 1860年(43歳) 晩春の頃 健康を害す。12月 吹雪の中、樹木の年輪を調べたのが原因で風邪をひき気管支炎になる。 1861年(44歳)4月12日 南北戦争開戦(〜1865年4月9日)。 5月11日 ミネソタ州ミシシッピー川の上流にある保養地に赴くが効果がないので自宅で静養する。 12月 肋膜炎を併発する。
1862年 体調悪く家に閉じこもる。 ≪アトランティック・マンスリー≫誌の編集長が『ウォールデン』の復刊を計画し、 ソローの希望で副題の「森の生活」を削除。 5月6日午前9時 結核のため死去、享年44歳。 5月9日 コンコードの第一教区教会で葬儀が行われ、エマソンが弔辞を述べ、 エイモス・オルコットがソローの詩「人生は斯の如し」を朗読した。 ニューベリイング・グランドの墓地に葬られたが、数年後にスリーピー・ハーロウ 墓地に移される。 1863年1月1日 リンカーン大統領が、奴隷解放宣言。
(略歴は「緑の部屋」(
*超絶主義(Transcendentalism)とは
超越主義とも訳されるが、エマソンやソローなどマサチューセッツ州コンコードに集っていた人たちの哲学・文学上のロマン主義運動。アメリ カルネサンスとも呼ばれる。
マサチューセッツなどニューイングランド地方のキリスト教徒に多かったユニテリアン派を母体に生まれた思想。この宗派のユニテリアニズムと いうのはキリスト教から三位一体説、原罪説など神秘性を除去してイエス=キリストは救世主(savior)ではなく先達(leader)でありキリストの 教えに忠実でありさえすれば、彼のように自らも努力によって救済を得られるという考え。エマソン自身、ユニテリアン派の牧師でもあった。
コンコードにいたユニテリアン派は一軒の家に集まり哲学・宗教・文学など様々な問題について話しあった。その中からエマソンらを中心に生まれ たのがトランセンデンタル・クラブ(またはヘッジ・クラブ)。彼らコンコード・サークルの人たちは感覚による認識の限界を「超越」し、想像力 と直感によって万物の根源である霊に参入することを説き、機関誌「ダイアル」(Dial)の発行や農場「ブルック・ファーム」(Brook Farm.) の共同経営などをした。
この会には「若草物語」を書いたルイーザ・メイ・オルコット(Louisa May Alcott,1832-1888)が父とともに参加していた。彼女は母親の遺産 とエマソンの援助でコンコードに家を建て移住、「オーチャード・ハウス」(Orchard House)と呼んで暮した。「若草物語」(Little Women: or Meg, Jo, Beth and Amy, 1868年)はそのときの暮らしにもとづく。
超絶主義者は理性よりも直観を重視し、思潮的には唯物論、実存主義に近く、行動としては理想主義、自然保護、個人主義、奴隷制廃止論が特徴。 エマソンによるこうした思想は、日本でも宮沢賢治や新渡戸稲造が深く影響を受けた。
*「ジョン・ブラウンの乱」
または「ハーパース・フェリー事件」とも呼ばれる。ハーパース・フェリー(Harpers Ferry)は個人の名前を冠した渡船場でワシントンからポ トマック川を溯って北西に70kmほどにある。動力になる豊富な流水と鉄鉱石、また火薬に必要な炭や銃床に使う堅材も付近の山から産出するの で、銃器の生産工場も兼ねた国営兵器庫が設けられていた。
当時のアメリカは奴隷解放をめぐって自由州と奴隷州に分かれていたが南部の農場主は奴隷制度廃止運動に流れることを恐れて、エイブラハム・リ ンカーン大統領を代表とする共和党員の策謀だとして非難した。結党間もない共和党は、奴隷解放を党是としながらも、対立する民主党から攻められ、 リンカーンはブラウンのことを「あの馬鹿爺め、我々の邪魔にならないように、できるだけ早く縛り首になればいい。共和党員の一人も襲撃に参 加しているとは言わせない」と切り捨てた。
州の権限が連邦に勝ることを誇示しようと、連邦政府の介入がある前にヴァージニア州での裁判を急ぎ、ジョン・ブラウンは 州への反逆罪で死刑を宣告され、12月2日の朝、絞首刑に処せられた。このとき北部の諸州では、教会の鐘が鳴らされ、 弔砲が撃たれ、大規模な慰霊の式が行われた。エマソンやソローはブラウンを賞賛する講演や詩作を行っている。「彼ほど人間愛に導かれ、純粋で勇敢な戦いで死に赴いた聖人はいない。その日が来れば、彼は絞首台を十字架のような光輝で満たすだろう」 (エマソン)
ソローらの弁護演説の邦訳の多くが「ジョン・ブラウン大尉を弁護して」などとなっているが、本人は軍役についたことがないので、これは間 違いだろう。「A Plea for Captain John Brown」の訳だが、「Captain」は米軍の階級では「大尉」ではあるが、本来「隊長」の意味でも使われる。襲撃の時には隊長として指揮しているので、「ジョン・ブラウン 隊長を弁護して」と訳した方がいいと思う。
南北戦争の後、ジョン・ブラウンの殉教者としての位置付けが確立された。後に「ジョンブラウンの屍」(John Brown's Body)という歌が、南北戦 争中の北軍の行進曲になった。
「John Brown's body lies a-mouldering in the grave; His soul's marching on! Glory, glory, hallelujah ・・・」
ジョン・ブラウンの骸は墓にあり
その身は土に腐れども
彼の魂は生きている
グローリィ、グローリィ、ハレルーヤ、グローリィ、グローリィ、ハレルーヤ、
グローリィ、グローリィ、ハレルーヤ、彼の魂は生きている
日本では「お玉杓子は 蛙の子 なまずの孫では ないわいな」の替え歌で歌われている。いつまであるかわからないが「You Tubu」で 曲が聞ける。 (URL: (「投稿者の意向でフレーム内での表示ができない」旨のメッセージが出た場合、その下の「このコンテンツを新しいウインドウで開く」をクリックしてください。動画が再生されます)
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ウォールデンでの生活
彼がウォールデン池のそばに小屋を立てたのは1845年の春、27歳の時だった。
ウォールデン池がある場所はマサチューセッツ州ミドルセックス郡コンコード(Concord , Middlesex County, Massachusetts)。ボストンの北西20数キロにある小さな町だ。一帯は湖沼地帯で、町の周囲には たくさんの池や湖があり、ウォールデン池はそのひとつである。「Google Map」に 衛星からみた写真(クリックでジャンプ)があるので掲出したが、右隣の池のほうがよほど大きいのでソローはこちらにいたように思えるくらいだ。
地図の表示では「Walden Pond」となっているが、スケールをみると池の周りは 2.7km で、池の一番深い部 分で深さ約31mもある。池と湖の区別はどこからなのか知らないが、広大なアメリカではこの程度のものは「池」の部類に入るようだが、我々の感覚では「湖」である。ここは当時『自然論』を著しすでに高名な哲学者だったエマソン の所有地で、知己を得たソローが借りて、周囲の木を自分で伐採して小屋を建てた。
(以下で紹介する小屋と室内の写真はすべてレプリカ。ソロー協会のHPから)
7月4日のアメリカの独立記念日から住み始めた。「どんな隣人からも1マイル(1.6`)離れた」小屋で2年2か月ほぼ自給自足に近い生活を送り、書いたのが代表作『ウォールデン 森の生活』という書物。 日本では『森の生活』というサブタイトルのほうが知られていて、『森』のイメージが定着しているが、原題のサブタイトルは『Life In the Woods』となっている。「Woods」とい うのは林で、森というなら「Forest」になる。だから森というほど深くはない雑木林での生活という程度のタイトルなのだ。しかも、ソローは改版の際に、 このサブタイトルそのものをカットした。だから著書のタイトルは「WALDEN」という池の名前だけになる。
実際、タイトルからイメージする「森の人」といったオランウータン的生活ではなかった。中国に「竹林の七賢人」という言葉が あるが、それに近い生活だったものの霞を食べて生きていたわけではなく、しょっちゅう町に出ては講演したり測量のバイトをしていた。読書をして、思索を し、するどい観察力で林を散策してペンをとった。
16世紀イギリスのエリザベス1世がイギリス国教会を確立したが、17世紀にかけて教会の改革を主張する清教徒が勢力を持つようになる。国教会か らの分離を求めるグループ(分離派)は弾圧を受けるようになり、信仰の自由を求め、102人がメイフラワー号に乗って大西洋を横断 してアメリカ大陸に亡命した。
そのピルグリムファーザース(巡礼始祖)はマサチューセッツのコッド岬にたどり着いたが、そこは湿気がひどかったので少し離れたプリマス(Plymouth ボストンの南 クルマで1時間ほど)を植民地とした。ウォールデン池があるコンコードはプリマスに近く、一帯は「アメリカの故郷」(America's Hometown)と呼ばれる人 気の高い観光地になっている。
*ソローにそのコッド岬を旅した「コッド岬」という著書がある。
フィンランド語を話す方法を学ぶ
コンコードはまた、白人とインディアンが戦った有名な戦場であり、あるいはイギリスの茶税に始まった独立戦争ではじめて銃声が起こった場所とし てアメリカでは歴史の教科書に登場する。コンコードは「第一回マサチューセッツ植民地協議会」が開かれた場所で、軍事的要所だったからイギリス軍が 攻め込んだ(1774年)。ところが農民軍にさんざ痛めつけられた。イギリス軍の意気阻喪に対し農民軍の意気軒昂は高まり、その後イギリスに勝てるという 自信が各地に広がっていった。だから歴史の舞台を見にやってくる人も多いところでもある。
2009年1月20日、バラク・オバマ新大統領が誕生したが、その就任演説で先人の犠牲に触れ「For us, they fought and died, in places like Concord and Gettysburg・・・」《我々のために、彼らは(独立戦争の)コンコードや(南北戦争の)ゲティスバーグ・・のような場所で戦い、死んだ》と、 この地の名前を出したのをみてもアメリカ人は誰もが知っている地名なのだ。
上述したように「アメリカの故郷」というとき、イギリス系の人の歴史ばかり表に出る。彼らが入植した土地を今でも 「ニューイングランド」(メイン、ニューハンプシャー、 バーモント、マサチューセッツ、ロードアイランド、コネチカット)と称しイングランド系移民が多いのだが、もっと早くにフランス人が入植している。
「フランス人が北米大陸植民地化の試みに乗り出したのはメイフラワー号より100年も前だった。コロンブスの最初の航海から12年後、すでにブルターニュ 出身の漁師は鱈漁をし、インディアン相手に毛皮取引していた。もっともその後鱈漁を捨てビーバー猟に変え、目に付く動物を片っ端からわなにかけそ の毛皮を剥ぎ取るようになっていた」(「アリステア・クックのアメリカ史」NHKブックス)
ソローは名前でもわかるようにフランス系だった。 しかしフランス人はいまでも個人主義者が多いのを見てもわかるが、国づくりにはあまり関心がなく、イギリス系とそりが合わなかったのだろう、 逃げるように北に移動していく。今でもカナダにはフランス系が多くモントリオールなどフランス文化圏を構築していて分離独立の気運が高いところだ。ソローも そうした反骨精神が旺盛で、コンコードで人頭税を払うのを拒否して逮捕されたことがある。このときは叔母が払ってくれて事なきを得たのだが。
ソローはなぜここで暮らし始めたのだろうか。そのあたりを「森の生活」でこう書いている。
「私が森に行って暮らそうと心に決めたのは、暮らしを作るもとの事実と真正面から向き合いたいと心から望んだからでした。生きるのに大切な事実だけ に目を向け、死ぬ時に、実は本当は生きていなかったと知ることのないように、暮らしが私にもたらすものからしっかり学び取りたかったのです。私は、暮 らしとはいえない暮らしを生きたいとは思いません。私は、今を生きたいのです。」
それはまた、彼が提唱した「ロハス」というものを実践するためでもあった。ソローは、人間は自由に生きる為にはできるだけ簡素に暮ら し、生活を小さくする必要があると考えていた。これを「Lifestyle of Health and Sustainability」として提唱した。この英文のアタマの部分「LoHaS] をとって「ロハス」と言っているのだが、換言すれば「自然・人間・社会の三者がいつまでも(sustainability)心地く生きるために」とでもなろうか、そうした 彼が考えるライフスタイルを実証しようとしたようだ。
だから、自然の中にいて、できるだけ人間社会の経済性とか利便性といったものとは反対側にある生活をしてみせて、十分なのがわかると湖畔の小屋での生活は2年 2か月で切り上げている。いま都市に住む人間の間で珍重されているアーバンライフといったものとは対極にあるものだ。
ソローが生きたのはどんな時代だったのか、を少し知る必要がある。
「49ers」(フォーティナイナーズ)といえば、今ではサンフランシスコ市に本拠地を置く、NFLの強豪チーム「San Francisco 49ers」の方が有名 だが、もとはといえば1849年のカリフォルニアのゴールド・ラッシュに狂奔した人たちのことだ。チームのユニホームが金色づくめなのはここか らきている。
1848年1月24日、カリフォルニアのサクラメント近郊のアメリカン川で、製材所の大工ジェームズ・マーシャルが砂金を発見したというニュースは またたく間に東海岸からヨーロッパ中にかけめぐり、南米マゼラン海峡を回る者、パナマまで船でゆき陸路横断してまた海路で来る者、幌馬車で ロッキー山脈をこえる者、争ってカリフォルニアに殺到した。1万5000人だった人口が翌年には9万3000人にふくれ上がり、1852年には22万人に激 増したという。
この時代を歌い、日本語の雪山讃歌の替え歌でも知られるフォークソング 「Clementine」 でも
In a cavern, in a canyon, 洞窟の中、渓谷の中 Excavating for a mine, 鉱石を探し回り Dwelt a miner, forty-niner 鉱山を掘る、山師よ And his daughter Clementine. そしてその娘のクレメンタインよと歌われているが、その「forty-niner」とは膨大な山師の群れのこと。この狂奔の時代、日本はどうかといえば、浦賀にイギリス船がやって来 て、さらにその4年後には補給基地を求めてペリー提督が来て『太平の 眠りをさます 上喜撰(じょうきせん、蒸気船) たった四杯(四隻)で 夜 も眠れず』と上を下への騒ぎの真っ最中。そのとき、ソローは32歳だった。
世を挙げてフロンティアスピリットに夢中になっているとき、ひとり東部のコンコードで、そんなものじゃないだろう、と冷ややかな冷めた目で世 の中を見て、自然に還れと主張していたのがソローなのである。
自らの五官すべてをフル動員し、野生生物、植物のすべてを知りつくそうという態度で散策した。ときには、野生のリンゴやドングリ、ハックルベリー、樺の 樹液などを口にし、這いつくばってアリの後を追いかけた。白樺の樹液は私も八ヶ岳で春先に飲むのでわかるが 、それはおいしいシロップだ。アイヌはこれを飲んで 健康食にしていたのだが、白樺の樹液は洋の東西を問わず自然の恵みなのだ。
「森の生活」の家計簿も書いている。支出は鍬代、畝立て代、豆の種子代、種用の馬鈴薯代、エンドウ豆の種子代、かぶらの種子代、カラス避け用の ひも代、馬人夫と少年の3時間の賃金、収穫のための馬と荷車代。一方収入は豆、馬鈴薯等の売り上げ。差し引き少しのお金が残る勘定だった。
またソローはウォールデン池の氷が溶ける時期を毎年観察していた。小屋にいた間とその前後も含めて7年間の記録(1845〜1854)をきちんと残している。いま地球温暖化が 問題になっているが、寒いので有名なボストンでの記録とあわせてソローの時代と現在とを比べることでわかってくることもあるのではなかろうか。ソローの生き方に私を含めて多くの人が惹きつけられるのはなぜだろうか。アメリカの高校生は「森の生活」の一節、「森に住んだのは自由に生きるため」と暗誦すると いう。教科書に載っているのかもしれないが、あのグリークラブの2人もどこかのくだりを語り聞かせてくれたものだ。
私はまだ訪れたことがないのだが、現在でも多くの人がアメリカをはじめ世界中からボストン郊外のウォールデン池の傍に再現された ソローの小屋(レプリカ)を訪ねてやってくる。地球温暖化などへの危機感から、人間の横暴への反省を込めてやってくる人もいるだろう。ナチュラリストや自然保護活動家の 聖地として見る人もいることだろう。入り口は違っても究極、たどり着く先は一緒だ。やはり人間は自然の一部で、それゆえもっと謙虚に暮らすべきだという一点で安 らぎを求めているのだと思える。
ソローに魅せられて、私も山暮らしを真似しているものの、私の「ソロー体験」というにはいささかおこがましい環境といわざるをえない。なにしろ彼はランプだったがここには電気が来 ている。かすかながらテレビも映り、ニュースも入る。薪をくべて暖をとるところは同じだが、同時にプロパンガスも石油ストーブもある。マイナス20℃ にもなれば電気毛布を使うこともできる。
しかし、朝の新雪の中にウサギやキツネの足跡を見つけると、夜中、彼らがどちらからどこに向けて走っていったのか、リスが秋に埋めたドングリを掘り出したらしい こともわかる。アカゲラが枯れ木をたたくとうまく虫をついばめたのか気になる。風のうなり声の中で身をすくめているしかないときには、ソローもこうしていた のだろうな、と思う。
林の中で自然を観察し、生き物たちの「声」を聞く静謐の気分を国木田独歩は「武蔵野」の中で「林の奥に座して四顧し、傾聴し、睇視し、黙視する」と書いている。 この頃の武蔵野台地のはずれは現在の渋谷のあたりで私が住まう世田谷区も含まれるのだが、自然と人生を考える風情は微塵もない。しかし、ここ八ケ岳では「四顧し、傾聴し、睇視し、黙視 して」厭きない。ソローもかくやと思う。
余談だが、いたく共感したところがある。ストーブだ。彼の文章に冬の寒さを前にストーブ作りに熱中するくだりがある。
「私は暖炉つくりに大いに手間ひまをかけました。暖炉こそ、家のもっとも大切な部分と考えたからです。暖炉の煙突は家の造りとは独立しています。土台は 直接地面につながり、先は屋根を破って天に通じています」
森の生活では「炎」というのはものすごく大切だ。上に再現されたソローの暖炉と煙突の写真があるが、レンガづくりの立派な暖炉である。我が山墅のものよりよほど本格的で、うらやましいぐらいだ。冬、暖をとりながら炎を見つめていると、いろんなことを考えさせられ、かつまた心身ともに 暖かくなるものだ。時おり、ソローもこんな落ち着いた気持ちだったんだろうなと思えてくる。
ソローはこう述懐している。
「暖炉を持ってはじめて私にも、自分の家に住む実感が湧きました。人は家に安全を求めるだけでなく、暖を求めるようになってこそ、本当に住んだといえます。 燃える暖炉の炉床から薪を離して火の強さを調節する古い薪置き台を手に入れていました。自分で作った暖炉の煙突の内側に煤(すす)が着くのが楽しみで、はじめて 味わう歓びと満足で、暖炉の火を勢いよく燃え上がらせました」
これなど、暖炉で薪をくべながら物思いにふけったことがある人だけにわかる贅沢だ。山では煙の匂いにまでいとおしさを感じる。
この八ヶ岳でささやかながら森の生活をしてみて言える事は、やはり人間は自然の中にいることが一番落ち着くということだ。森の中にいるということは、さしづ め母の胎内にいるかのような安らぎが得られるのだ。これがソローが目指したところではないか、そして自然に抱かれて生きることが人間の基本的なことなのだと いうことがわかってくる。
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ソローの言葉
ソロー・珠玉の言葉
ソローの言葉としてもっとも人口に膾炙しているのはウォールデンに小屋を建てて住み始めた理由について述べた次の一節だろう。
■私が森に行って暮そうと心に決めたのは、暮らしを作るもとの事実と真正面から向き合いたいと心から望んだからでした。生きるのに大切な事実だけに目 を向け、死ぬ時に実は本当は生きていなかったと知ることのないように。暮らしが私にもたらすものからしっかり学び取りたかったのです。私は、暮らしとはいえない暮らしを 生きたいとは思いません。私は今を生きたいのです。私はあきらめたくはありません。私は深く生き、暮らしの真髄を吸いつくしたいと熱望しました。訳は現在のところ最新の出版である「ウォールデン 森の生活」(今泉吉晴/訳 小学館 2004年5月発行)に因ったが、「暮らし」というのがわかりに くいかもしれない。 原文では 、
I went to the woods because I wished to live deliberately, to front only the essential facts of life, and see if I could not learn what it had to teach, and not, when I came to die, discover that I had not lived. I did not wish to live what was not life, living is so dear; nor did I wish to practice resignation, unless it was quite necessary.となっている。「Life」の訳なので、「暮らし」とあるところを自分で「人生」とか「生きる」とかに置き換えて読むとい いかもしれない。このくだりはアメリカでは諳んじている高校生が多いそうで、よく知られているという。観光地に なっているウォールデン池畔にも写真のように一節が掲示されているくらいだ。
■どうして僕らはこんなに慌ただしく、こんなにいのちをむだ使いしていきねばならないのか。飢えもせぬうちから餓死すると決めこんでいる。今日の一針 は明日の十針などと世間では言うが、その流儀で明日の十針を節約するために今日は千針も縫ってしまう。仕事はと言うと、これと言うものは一つもない。
■一日はぼくの何かの仕事を先導する明かりのように進んでいった。朝だとばかり思っていたのに、それがもうあっというまに夕暮れだ。しかも記 憶に価することは何一つ成し遂げていない。鳥のように囀る代わりに、ぼくは途切れることのないぼくの幸運が嬉しくて、黙ったままで微笑していた。
■楽しみを外に求め、社交や芝居見物に余念のない人びとに対して、ぼくの生き方には少なくとも一つ長所があった。ぼくには生きること自体が 楽しみとなっていて、ついぞ鮮度の落ちたことがない。ぼくの生活は見せ場がいくつもある終わりのないドラマだった。
■今日、すべての人が真理として共鳴したり、あるいは黙認しているものも、いずれ、明日になれば誤りであることが分かるかもしれない。また ある人が自分の畑に慈雨をもたらす雲だと信じていたものが、たんなるそこらの煙にすぎないことが分かるかもしれない。昔の人間が君にはできないとい ったことを、やってみれば出来ることに君は気づくのである。昔の人間には昔のやり方があり、新しい人間には新しいやり方がある。
■教師として歳を取った人間はその適性において若者より優れているとはいえない。彼は得たものよりも失ったものの方がはるかに多いからだ。たと え最も賢明な者でも、生活から何か絶対的価値のあるものを学んできたかどうかはかなり疑わしい。
■今宵は、まことに味わい深い夕べでした。私は体のすみずみまで、ひとつの感覚で満たされました。体のあらゆる細部が、くまなく、自然を歓びを もって受け入れている、とわかりました。私は気の向くままに歩き、自分を自然の小さな部分と感じて、不思議な自由を味わいました。
どのように研究論文を書くのですか?
■家に戻った私は、昼に訪問者があって名刺を残していったのを知りました。名刺といっても、ここでは、花束とか、常緑の植物で作ったリースとか、 鉛筆で名前を記した黄色いクルミの葉とか、木切れです。森に入ったことがあまりない人は、よく、森で何かを手に取り、いじって楽しみながら道をたどります。 今日の訪問者のひとりは、すらりと長く伸びたヤナギの小枝の皮をむき、リースに編んで私のテーブルにおいていきました。このような名刺がなくても、私 は森の小道の脇の折られた小枝とか、ちぎられた草の葉、あるいは靴跡などで、留守中に訪問者があったとわかります。それに、一輪の花の落とし方、草 のむしり方、置き方などの、ちょっとした痕跡から、たいていは男女の別、年齢、それに個性も察知できます。
■私の森の家には椅子が三つありました。ひとつ目は独り居のため、ふたつ目は良き友のため、三つ目はみんなのためでした。大勢の訪問者があ ると、椅子は三つ目のものひとつだけですが、立ったりして、部屋を上手に使ってくれました。小さな家に立派な男女が何人入るか、やってみると驚くほ どでした。二五から三〇の体付きの魂が、私の小さな家に収まりました。さすがに多すぎて、身を寄せ合っても気持ちはさほど近づかず、三々五々散 っていきました。
■町の家は、公用か個人所有かによらず、ほとんど無数と言っていい多くの部屋があり、いくつかの大広間があり、そしてワインその他の平和のた めの武器を貯える地下の貯蔵庫がいくつかあります。使う人の数に比べ、途方もなく大きく、あきれます。家屋が壮麗で広大に過ぎて、住む人がまるで 勝手に住み着いた家ネズミかゴキブリのようです。
■早くも9月1日に、家の向こう岸の水際に生える3本の大きなヤマナラシの白い幹に並ぶ、二、三の小さなカエデの木が深い紅色に変わりました。お お、その深き色合いの多彩な階調が私に語りかけた物語の、なんと豊かだったことでしょう! 一週間、そしてまた一週間と、木それぞれの特徴が幾重に も現れ、どの木も淀みがない湖面の鏡に映るわが身に驚きの声を上げました。朝ごとに、この画廊の主人である自然は、森という壁にかけた絵を改め、い っそうきらびやかで、いっそう調和の取れた彩の新しい絵にかけ替えました。
■10月には、何千という大きなスズメバチが訪れ、私の家をこれはいい冬ごもりの場所、と見たのでしょう、群がり集まって窓の内側や天井近くの 壁に止まり、時に私の訪問者をたじろがせました。彼らが凍てついて動けない朝のうちに、私はいくらか掃き出しもしましたが、危険な目に遭ったからでは ありません。彼らが冬ごもりの場所に私の家を選んでくれたのは、私の誇りでした。彼らは、住居を共にする私に危害を加えようとはしませんでした。彼 らも、本格的な冬の恐ろしい寒さを避けてのことでしょう、私にはわからない隙間を探したのか、少しずついなくなり、いつの間にか姿を消しました。
■私は暖炉作りに大いに手間ひまをかけました。暖炉こそ、家の最も大切な部分と考えたからです。実際、私が作業を慎重に進めすぎたためでしょう、朝に 地面の土台から積み始め、夜にレンガの上面が床上数センチに達したに過ぎず、やっと私の枕になるくらいでした。もっとも、レンガを枕にしたからとい って、ことさらに肩が凝った(頑固者になった)覚えはありません。私の頑固はずっと昔からです。そのころたまたま2週間ほど、詩人が私の家に寝泊りし ていて窮屈だったため、私は暖炉のレンガを枕に寝たのです。
■私はナイフを二つ持っていましたが、彼もナイフを一つ持っていました。使ったナイフの汚れを落とすのに、私たちはナイフを繰り返し地面に刺 したものです。彼とは料理も一緒にしました。進めている仕事が確かな姿を現すのを見るのは楽しいものです。私はゆっくり仕事をすればするほど、丈夫 で長持ちする仕上がりになると信じていました。暖炉の煙突は、家の造りとは独立しています。土台は地面に直接つながり、先は屋根を破って天に通じて いるのですから。
■暖炉を持って初めて私にも、自分の家に住む実感が沸きました。人は家に安全を求めるだけでなく、暖を求めるようになってこそ、本当に住ん だといえます。
■人は暮らしを簡素にすればするほど独り居は独り居でなく、貧乏は貧乏でなく、弱点は弱点でないとわかります。
■私はウォールデンの森を、森に入った時と同じように十分な理由があって去りました。私は引き続いて生きてみたいいくつかの別の人生が見え てきて、森の暮らしに時間を割けなくなっていました。
■幸福というのは蝶に似ている。追いかければ追いかけるほど遠くに去る。だけど、あなたが気持を変えて、ほかの事に興味を向けると、それは こちらにやってきて、そっとあなたの肩に止まるのだ。■地球の大きな生命に比べたらすべての動物と植物は、その生命に寄食する居候です。
■踏み込むことのできない自然があることを知ることが、自然を知ること。
■母なる自然が、獲物を捕らえたと思うと獲物になる暮らしによって成り立ち、無数の悲劇も生き物の偉大な輪を通じて命がつながっている。競争のよう に見えて、実は相互扶助に満ちている。
■君の眼を内に向けよ、しからば君の心のなかにまだ発見されなかった一千の地域を見出すであろう。そこを旅したまえ。
■もし自分の願望に向かって自信を持って進んでいくならば、そしてその願望を実現するために奮闘するならば、きっと思いがけない成功 に恵まれるだろう。
■生活がいくら惨めであろうとも、そこから顔をそむけずに、ありのままに. 生きることだ。自分の生活を避けたり罵倒してはいけない。 生活は、諸君が 一番富んでいるときに一番貧しくみえるものだ。
■悪の葉っぱに斧を向ける人は千人いても、根っこに斧を向ける者はひとりしかいない。
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ソローはさしずめ西の陶淵明
ソローの著作を読んでいると、紙背からどうしても陶淵明(陶潜)の姿が浮かんでくる。二人は洋の東西に別れているし生きた時代も違うのだが、 その境地が非常に似ているからだ。 実際にソローは中国哲学に興味を持ち、26歳(1843年)のとき孔子の研究をしている。そのとき陶淵明を読んだか、知ったか記録には残っていないが、以下に紹介するような 漢詩をソローが詠んだといわれても信じることができるほどだ。このホームページの「さくら」の項で、八ヶ岳に向かう途中、桃の花が満開で甲府盆地の東が一面のピンクに染まる花盛りのとき甲府・一宮あたり を通りかかると「帰りなんいざ田園まさに蕉(あ)れなんとす」の陶淵明の「帰去来の辞」が口をついて出てきて心の高ぶりがある、と書いたが、この 二人の境地に共通性を見出すのは私だけではあるまいと思うので、陶淵明の詩境を採録する次第だ。
東晋の役人だった陶淵明(365-427)は彭沢(ほうたく)の令(地方長官にあたる)のとき辞表を出して郷里に帰った。彼の故郷は今も景勝の地として有名な 江西省九江の廬山(ろざん)の麓にある。辞めた理由について本人は「嫁いでいた妹の訃報を聞いて矢も楯もたまらなくなり」と書いているが、 「晋書・陶潜伝」によると、郡の督郵(視察官)が視察にまわってきたとき、下役人から礼装して出迎えなければならないと言われた。これに憤慨して、 「我能く五斗米(米五斗は県令一日分の俸禄にあたる) のために腰を折らず、拳拳として郷里の小人(しょうじん)に事(つか)えんや」と口にして直ちに印綬を返還して郷里に帰ったという。 41歳の時だった。
精神の自由を得たものの、晩年の暮らしは恵まれなかった。44歳の時に家が火事に遭ったことで一層貧しくなり「夏日抱長飢、寒夜無被眠」の句を 残しているほど貧窮した。食べるにも事欠き、借りて食べる日さえあったという。そんな苦しい晩年に有名な散文「桃花源記」を書き、コートピア社会 を描きだしているのだからすごい。
自叙伝(第三者が書いたような文で自分を伝記風に書くのが当時はやっていた)に曰く、
「先生は生まれがどこかもわからないし、その姓や字(あざな)も判然としない。ただ 家のそばに五本の柳があったので五柳と号した。物静かな人柄でめったに口をきくことはなかったし、 名誉や富を求めることもしなかった。読書が大変好きだったが、無理に解しようとはしなかった。たまたま自分の気持にかなった文章にぶつかったりすると、食事をとるのを忘れるほど夢中になった。
酒は生まれつき大好きだったが、家が貧しいため、いつも手に入れるというわけにはいかなかった。親戚・友人はそういう事情を心得ていたから、時々 、酒席をしつらえ招くのだった。そんなとき先生は遠慮せずに招かれていき、出された盃をぐっと一気に飲み干すのだった。そして飲めば必ず酔うことに決めていた。 だから酔ってしまうとさっさと席を立ち、未練がましくぐずぐずするということは一度もなかった。
狭い家にはこれといった家具もなく照ろうが吹こうが一向に構わなかった。着ているものといったら丈の合わない粗末なもので、それも着古しているから つぎはぎだらけだった。食事に事欠くこともしばしばであった。だが先生は一向に気にもとめなかった。普段はいつも文章を書いては自分を楽しませていた。それは自分の志を 的確に言いあらわした文章で、利害得失を論ずることなど念頭になかった。かくて先生はその一生を終えた」
=『五柳先生伝』 「陶淵明」(李長之著 松枝茂夫・和田武司訳 筑摩書房)から=
その五柳先生が役人生活に別れを告げ故郷に帰った歓びをつづったのが「歸去來兮辞」だ。出だしの「歸去來兮」からの二句は口当たりもよく有名だ が、これを「帰りなんいざ」と読んだのは菅原道真が最初だという。以後みんなこれに倣(なら)っている。ワープロでは拾えない活字があるので、書籍を複写したもので紹介する。少し長いが自然とともにある生活の喜びにあふ れていて、ウォールデン池畔のソローと重なる。
(画像クリックで大きなサイズになります。漢詩の句末に付いている●○印 は韻のあり場所)
さあ帰ろう。
我が田園は荒れはてようとしているのにどうして帰らずにいられようか
いままで生活のために心を犠牲にしてきた
もうくよくよと悲しんでいる場合ではない
過ぎてしまったことはいまさら悔やんでもしかたない
未来こそ追い求めるべきものだとわかった
人生の道に迷ったもののまだそう遠くは離れていない
今の自分が正しく、昨日までのことは間違いだったと気づいた
船はゆらゆらとして軽く波に乗り
風� ��そよそよと私の衣に吹く
船頭にこれからの先の道のりを訪ねた
朝の光のおぼろげなのがなんとも恨めしい
やっと我が家の門と屋根が見えたので
いそいそと小走りに向かっていくと
召使いたちがうれしげに出迎え
幼な子は門で待っている
三本の小道は荒れてしまったが
松と菊はまだ残っていた
子供たちの手を引いて部屋に入れば
酒の用意がしてある
徳利を引き寄せて手酌で飲みながら
庭木を眺めては顔をほころば� ��
南の窓に寄りかかって楽しい気分を満喫し
狭いながらも我が家の居心地の良さを感じる
庭は日ごとに趣を増し
門はこしらえてあるもののいつも閉めたままだ
老いの身に杖をついて休み休み散歩し
時々頭を上げて遠くを眺めやる
雲は無心に山の峰からわき出て
鳥は飛び疲れてねぐらに帰る
しだいに暗くなって太陽は沈みはじめる
庭の一本松をなでつつ去りがたい気持ちになる
さあ帰ろう
世間との交際をやめよう
自分と世間とは相容れないのだ
また役人生活に戻って何を求めるというのだ
身内の情のこもった話を喜んで聞き
琴や書物を楽しんで憂いを消そう
農夫が私� ��春が来たよと教えてくれた
これから西の畑で野良仕事が始まる
幌をかけた車を用意させたり
一艘の小船の棹を操ったりして
奥深い谷に入り
あるいは険しい丘を越えて行くと
木々は生い茂り
泉はちょろちょろと流れ始める
万物が時節を得たのを喜びつつも
私は人生が終わりに近づいていくのを感ずるのだ
どうしようもないことなのだ
人間はいつまでも生きていられるわけではない
どうして成り行きに任せないのだ
あたふたとどこへ行こうというのだ
富貴は自分の望むところではない
かといって仙人になれるわけでもない
天気のよい日は一人で散歩し
� �� 杖を突きたてて草刈りをしたり
東の丘に登っては静かにうそぶき
清流の傍らで詩を作る
このまま自然の変化に身をまかせて死んでいこう
与えられた天命を楽しめば、何のためらいがあろうものか
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陶淵明は宮仕えから解き放たれ、郷里の廬山の麓に帰った。その喜びを上述の「歸去來兮辞」に表したが、同時に「帰園田居」など五首を作った。 その第一首「帰園田居」(園田の居に帰る)はとりわけ田園詩人の面目躍如たるものだ。対句を重ねることで自然に生きる幽玄の境地を余すところなく 表現していてこれまたソローと重なる部分だ。
廬山 陶淵明が暮した廬山は北は長江に面しており、長さ約25キロ、幅約20キロにわたり標高1000メートル以上の山が連なり雲に覆われて幽玄なところ。夏目漱 石の「草枕」の一節にも出てくる"悠然として南山を見る"と陶淵明が詠んだ南山は廬山のこと。また山の一つ香炉峰は「枕草子」に「香炉峰の雪は簾を撥げて看る」(白楽天)とある山。日本の文学とも関係が深い名勝地で、現在、世界遺産に登録さ れている。泉や滝、不思議な形をした石などが分布しており中国山水画発祥の地である。
仏教聖地でもあり、最盛期には山中に300を数える寺院と1万人以上の僧侶がいた。そのひとつ、東林寺は浄土宗仏教の発祥の場所で、日本に渡って 布教につとめた鑑真和上も修行をしたところ。
夏でも平均気温が20℃前後なので、文人から蒋介石・宋美齢の国民党政権や毛沢東・江青の共産党政権まで古来多くの要人が別荘を構えた。
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陶淵明は面白い人で、上述のように自分で書いた自叙伝もあれば、自分へ捧げた挽歌や、我が子の出来が悪いのを嘆いた詩がある。実に人間味豊かで 味わい深い。以下に紹介するのは、自分で自分への挽歌を詩にしたもの。この時代にみられる手法で墓に入った身で外を眺めやり、我が子が悲しんで泣くさ まや友人が嘆く様子を描写し「サヨナラダケガ人生ダ」とうたっている。
「挽歌の詩に擬す その一」
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田園詩人は隠遁の境遇を楽しんだが、世間並みの悩みもあった。男5人の子どもがいたがそろいもそろって出来が悪かった。 「責子」(子を責む)と題してこう嘆く。もっとも、これは酒を飲んでの戯れの詩作で文字通りに受け取るべきではなく、子どもへの慈しみ を汲み取るべきだろう。長男は先妻の子どもで、年齢「二八」とあるのは16歳のこと。次男は後妻の子で、「志学」は論語の「我十有五にして学を志す」から15歳。
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白髪は左右の鬢(びん)を覆い、皮膚はもう色つやを失ってしまった。男の子は五人もいるのに、そろいもそろって 勉強が嫌いときている。 長男の阿舒(あじょ)は十六歳にもなるが、無類の怠け者だ。次男の阿宣(あせん)は学問に志す年である十五歳 をむかえるというのに文章学問の道を好もうとしない。 その下の雍(よう)と端(たん)は、ふたりとも十三歳だが、まだ六と七との区別も つかない。末っ子の通(とう)ももうすぐ九歳になるというのに、梨だの栗だのをねだるばかりだ。 これも運命だと思えば、まああきらめて 、酒でも飲むことにしよう。 |
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貧乏なうえ不出来な息子5人を抱えて、世俗の悩みはあったが、それでも田園生活を楽しむ精神の余裕を陶淵明は持ち合わせていた。 日本でも夏目漱石はじめ多くの文学に引用される「菊を採る東籬の下 悠然として南山を見る」で有名な「飲酒 其五」は、数ある彼の詩作の 中でも思わず耽溺してしまう詩興だ。最後にこの名詩を、文法的にはすこし外れるところがあるかもしれないが個人的な"意訳"とともに紹介しよう。
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私は盧(いおり)を人里の中に構えている |
悠然として 南山を見る
「廬を結んで 八ヶ岳に在り 山気 日夕に佳し・・・」とでも言おうか、前夜心ゆくまで堪能した仲秋の名月が、翌明け方に主峰・赤岳の隣峰 横岳の頂上に懸かったところを目撃した。ちょうどこの項を書いている最中で、五柳先生の詩興そのままの光景に接することができた。長くいてもこれほどの有明 の月にはめったに出会うものではない。我が山墅の二階から眺めやりつつ、静謐の安らぎの時間を得た。
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